誰のためのバランス?
2010年8月24日
昨年ある友人が新しい会社をつくった。仕事を通じて出会った仲間たちと。彼は「目標やミッションは立てない」と言う。経営目標とかゴールイメージとか、そういうのはまだ無くていいんだと。
「ミッションが先に立っていると、うまくいかなかったり目標を達成できなかった時、『おまえの仕事が足りないんだ』とか『もっと出来ないの?』という具合になりやすいし、『他にもっといい人材がいるんじゃない?』なんていう話にもなりかねない。
人がミッションの機能や部品になってしまう。
それよりも、そこに居合わせた顔ぶれから始めて。このメンバーで出来ることや、この組み合わせから生まれてくるミッションをやってゆく方が面白いし、それならメンバーを越える無理も生じないと思うんだよね」と。
バランスが要るのは労働的だから?
〝仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)〟というテーマは、仕事が会社から与えられたり、人の指示でやったり・やらされている時に生まれやすいように思う。
自分で思い付いたり発見して、やり方も自分で考えながら取り組んでゆく仕事なら、調和の有無はあまり問題にならない。不可抗力性が低いし、なにより仕事と生活の出所が同じで、本人の中で分かれていない。
そもそも、人に言われてすることは「仕事」なんだろうか? 僕の感覚では、それはむしろ「労働」という言葉のニュアンスの方が近い。
今の労働の多くはお金を得る働きを指すと思うが、仕事はその限りではない。家事も子育ても仕事だし、「今日の仕事は、隣とうちの庭の間の生け垣を整えること」という日もあるだろう。私たちが、人と人、あるいは自然を含む周囲との関係に手入れをして、つながりに力を与えてゆく行為はすべて「仕事」と呼んでいいんじゃないかと思う。
あるいは本領の発揮。一流のサッカーの選手による力の出し惜しみのないプレイに、私たちは「いい仕事をする!」と賞賛を贈る。そこに、「労働」という言葉のニュアンスは全く似合わない。
仕事と生活のバランスが必要になるのは、その仕事が「労働的」である時なんじゃないだろうか。つまり人の喜びや充実感より、ミッションの方が上位にあるということ。
先の友人は、新しい仲間たちとの仕事がそうならないように気をつけている。目標やコンセプトや、やるべき事が先立って、工程と分業が計画的に決まってしまうと、あとはただの作業になりかねない。メンバーから始める方が自然だし面白いという彼の視点に、僕はハッとした。
力の出し惜しみは社会を冷やす
日本は企業社会で、多くの人がなんらかの組織に属している。創業者ならいざ知らず、後から加わった人がその場の価値観に手を加えてゆくのは難しいし、自己裁量の範囲も限られていて、大半の人は与えられた課題を引き受けて働いていると思う。
責任を取り務めを果たすのは尊いことだし、労働的かどうかは別にしても、その只中で仕事と生活のバランスをとる必要が生じるのもわかる。過剰適応的に働きすぎず、日々の生活を大切にしてバランスを取ることになんら異論はない。本人には、他でもない本人を守る責任があると思う。
でもそれが少し自己防衛的になって、力の出し惜しみのような連鎖が進むと、社会全体が冷えてしまう。
この社会は、私たちの仕事の積み重ねで出来ている。いま着ている服も、肘をのせているテーブルも、紙も、窓枠も壁も、ランチのご飯も、お店のBGMも、道路も街灯も。すべてどこかの誰かの仕事の結果だ。
つまりこの社会で生きてゆくということは、24時間・365日、誰かの仕事に触れつづけてゆくことだと言える。
そしてその一つひとつは、どんな気持ちや感覚の中でそれが行われたかということを、語るともなく私たちに伝えている。喜びの中でつくられたものは、良し悪しや趣味を越えてそのたまらなさを伝えてくるものだし、「こんなもんでいいでしょ」というような、何かを放り捨てるような感覚の中で行われた仕事は、あきらめのような小さな無力感を伝えるともなく伝えてくる。
表面に言葉で書かれてはいなくてもジワジワと伝わってくる、その後者のダメージは、人をあからさまに傷つけはしないものの、祝福も肯定もしない。むしろ静かに存在を否定して、少しずつ心を冷やす。
結果として、人々が働けば働くほど互いに力を損なってゆくような変な状況が、社会のあちこちで進んでいるように見える。その逆のことも起こりうるはずなのに。
一つひとつは些細なことでも、先にも述べたとおり量的に考えるとその影響力は深刻だ。これは人の仕事という自然をめぐる、もう一つの環境問題だと思う。
仕事を「自分の仕事」にする
仕事と生活のバランスは大事。でも、防衛的なそれは自分を守りこそすれ、社会の体温を下げてしまう可能性がある。
与えられた仕事や請負の仕事でも、それを決して他人事ではない、自分の仕事にしてゆくにはどうしたらいいんだろう。
企業に勤める別の友人がそのヒントを聞かせてくれた。彼は上司から頼まれた10の仕事に対して、勝手に5を加え、15で返すようにしているんだと言う。
彼は行政系の組織の地域イベント部門で働きながら、具体的には、頼まれもしない海外の事例調査まで企画資料に入れてみたり、歴史的背景を勉強しなおして(彼は歴史好き)補足資料として添えたりしているそうだ。
勝手に風呂敷を広げているこの5の部分は紛れもない「自分の仕事」で、一度ここが認められると、次も期待されるようになる。そして次第に、仕事中に自分の興味や関心事を扱えるようになってゆく。会社のような場ではリアクションで働いてる人、つまり言われたことをしている人が圧倒的に多勢で、アクションで働いている人、つまり自分から動いてゆく人は少ない。だから後者で動くと全部が回るのだ、と。
10はきっちり押さえつつ、頼まれもしない5の部分で遊べる形をつくり込めれば、会社ほどいいところはない。究極の請負業であるサラリーマンでもこの原理を使えばモチベーションを落とさずにやっていける。というのが彼のスタンスで、最近部署が変わったようだが、また同じ調子でアクションを重ねていることだろう。
仕事を増やしちゃバランスが取れないじゃない、と思う人がいるかもしれないが、これは彼なりのバランスの取り方だ。守りでなく、攻めのバランシングとでも言うか。
スキーで斜面を滑り降りる時は、体重をしっかり前側にかける。それを後ろに移すと、一気にコントロールを失う。仕事に対するオーナーシップの感覚もこれと似ている気がする。+5の仕事に励みながら、彼は仕事と生活を分けようとしていない。彼の人生に統合しようとしている。
誰のためのワーク・ライフ・バランス?
力を抑制しないで、より乗せてゆくような。引くのではなく、前へ出て行くようなバランスの取り方もあることを書いてみたいと思った。
調和の形は人それぞれで、他人が口を挟むべきことではないと思う。ただ、最後にもう一つ共有してみたいことがある。
学生と話す機会が時々あるのだが、「社会人になったら、我慢して働かないといけない」と考えている人が増えているみたいだ。仕事を通じた社会参画に意味を見出せずにいるどころか、働くことを、自分を殺して生きることのように予知して、心の準備までしている気配すらある。
その彼らの視界の中には、間違いなく私たち大人の姿がある。
私たちには次の世代に、安全な社会を残すだけでなく、生きることの肯定感を示してゆく責任があると思う。仕事はその重要なチャンネルだ。
その意味において、道路工事現場で働いている人も、会社勤めの人も、お店の販売員も、病院のお医者さんも、本当にみな表現者だと思う。私たち一人ひとりの仕事がこの社会の質感をつくり、その働く姿を通じて、次の世代の仕事観に影響を与えている。
働き方であるとかそのバランスは、自分だけの個人的な問題では決してない。仕事とは人や社会との関わりの中で自分を再発見してゆくことだし、それは自分の課題と社会の課題が重なるところにあるものなのだから。
<プロフィール>
西村 佳哲氏
(デザイン会社 (有)リビングワールド代表、働き方研究家)
1964年生まれ。プランニング・ディレクター。武蔵野美術大学卒。コミュニケーション・デザインを主領域とする会社「リビングワールド」代表。多摩美術大学非常勤講師。NPO法人シブヤ大学講師。全国教育系ワークショップフォーラム実行委員長。働き方研究家としての著書に、『自分の仕事をつくる』(晶文社/ちくま文庫)、『自分をいかして生きる』(バジリコ)、『自分の仕事を考える3日間 Ⅰ』(弘文堂)など。